めでたい

おめでたい、と最近よく言われる。
もちろん子どもが生まれたからだ。
できる限りの笑みを浮かべて、ありがとうございますと力いっぱい答えているが、本心からおめでたいことなのだ、と思ったことは今のところない。
誤解されては困るのだが、僕は家内が嫌いな訳でも子どもが可愛くないわけでもない。望まずうまれてくる訳でもない。むしろ、それ相応の努力はした。
妊娠の知らせを聞いたときは、嬉しかった。そう、嬉しかった。
休日の午睡を泣き声で破られても、うんちのおしめを換えながらでもその気持ちは変わらない。


昔からおめでとうと言われることに慣れていなかった気がする。
初めて違和感を自覚したのは高校受験のときだった。合格して当たり前というところを受けて、当たり前のように合格した。そして、おめでとう地獄が始まる。
近所の人が満面の笑み(後から考えれば愛想笑いに違いないのだが、その時はそう思った)を浮かべながら、おめでとうおめでとうと繰り返すのがほとほと嫌だった。
僕じゃない僕が褒められているようで、とても居心地が悪かった。めでたい気持ちになることを強要されているようで少し怖くもあった。ただ、僕にとっては当たり前に努力した上での当たり前の結果だったのだ。突然の閃きで回答が埋まったわけでも、集計センタのミスでたまたま合格したわけでもない。単になにもトラブルが無かっただけなのだ。


その違和感は大学受験の時に決定的になった。
端的に言えば僕はセンター試験に失敗した。今までやったことない位に努力し、事前の模擬でA判定が出るまでになっていたが、ふたを開けてみればEまで落ちた。
とりあえず僕は一日泣いた。その後、この成績でも入れるところの願書を取り寄せそこへ行った。そこで今の家内と会うのだから、人生わからないものだがそれはまた別の話。
とにかく自分の中では大失敗だったのだ。浪人できないという事情から大学へは行ったが、その当時の青臭い僕の心中は挫折感ではち切れそうだった。
でも、みな言うのだ。
おめでとう、おめでとう、と。
なにがめでたいものか。大失敗だ。嘲りに来たのか。
おめでとうを言われる度に、言った人間の殺し方を十は考えた。さぞかし凶悪な人相だったろうに、おめでとうは止むことがなかった。


そりゃおめでとう意外にどう言えと問われると返答に困る。
必死の努力が実らない上に、本意ではない結果を選ばざるを得ず残念ですね、とか言われたらきっと想像上の殺し方は実行に移されたことだろう。一瞬で僕の本心を見抜けというのがそもそも無理難題だ。
だから、僕はそれ以降のおめでとうは愛想笑いと無難な返答で切り抜けてきた。
卒業したときも、就職が決まったときも、結婚したときも。


決断するということは在り得た未来を諦めるということだ。全ての決断がおめでたいはずもない。もし、あれが違っていたらという空想は誰でも弄んだことくらいはあるだろう。
きっとおめでとうはそれらを封じる呪文のようなものなのだ。
僕はめでたい。だから、自分の決断は間違ってはいないと。
これからの数十年という時間を子どもに捧げるのは間違っていないと。
自由になるお金は減り、逃れられない付き合いが増え、その成長や成績や将来に死ぬほど悩むことを選んだのは間違っていないと。


あれこれと自問している間におしめを換え終えた。
結論なんてないのだ、と自分に言い聞かせ思考を終了させる。
おしめが換わってすっきりしたのか、先ほどとは一転して穏やかな表情を浮かべていた。寝たのだろう。それを眺めているうちに自然と頬がゆるむ。親ばかも悪くない。
その時、子どもが不意に目を開けた。見えているはずの無い視線が繋がる。ゆっくりと子どもの口がぱくぱくと開く。そして、一瞬笑ったかと思ったら激しく泣き出した。
おそらくミルクが欲しいのだろう。だが、僕はしばらくの間動けなかった。


「おめでとう」


そう聞こえた気がした。