2種の言葉

いけないと思いつつも言葉のレイヤが別れている。
通常用と子どもを除いた用と。
子どもが居るにも関わらず聞こえないものとして話す事が良くあるということ。
最近は上の子が人語を解するので減ったけれど、それでもまだ乳児の時の癖が残っている気がする。
難しい語彙を選択しているからわからないだろうと無意識に判断しているのだろう。
そんなことがあるはずもないのに。


会話は根本原則として言語を必要としない。
そりゃ細かい指示なんかは同じ言語を使用できないと難しい面もあるが、感情は伝わる。そして、感情を読むことに関して子どもほどスペシャリストはいない。
だから、頭越しに会話されると大変に傷付く。
それは明確な無視だし、お前にはまだ必要ないという評価を下す行為だからだ。
もちろん私たちに悪意はない。だが、悪意の無さは子どもを救済しない。


3歳も過ぎれば頭上を通り過ぎる言葉の端っこを掴まえ始める。
その言葉は単体では意味を成さない。だから、掴まえた言葉から紡がれる発言は常に奇矯だ。
だから、笑う。
そして、気付くのだ。ああ、レイヤが別れていたな、と。
今はまだ子どもが統合しようと働きかけてくれる。しかし、いずれ働きかけが無くなり、同時に成長した子どもは十全に私の言葉を解するようになる。


おそらくその頃には子どもは私の分からない言葉を話しているのだろう。
私はレイヤの違いに気付けるだろうか。統合しようと働きかけられるだろうか。
きっと、子どもはそれを笑うだろう。
私がしたのとそっくり同じように。