いない×いない

「いないいないばあ」を喜べるようになった。
以前は、ぽかんとした表情を浮かべるだけだったけれど、今じゃ声をあげて笑うくらい。
親が必死で顔を隠す姿が大変滑稽に映るのだろう。大した認識力である。


しかし、無くても有ることを理解するのはとても高度な処理だ。
経験からの予測か、現在の情報からの推理を行っているということ。
まあ、いないいないの場合は本体の大部分が見えているけれど。
それでも欠落した情報でも処理できるということには違いない。視覚的に処理できる量が一桁増えたようだ。


さて、私の場合はどれくらい処理できているのだろう。

出てきた料理に作った人の苦労を見ているだろうか?
ちょっとした髪型の違いに気付いているだろうか?
親が差し入れてくれる作物に、思いやりを感じているだろうか?

どうも画像を画像としてしか処理していない気がする。
それに対する過去も未来も見えていない。


「いないいないばあ」ならばあのタイミングで否応なく何かが起こったことに気付かされる。だが、現実には誰もばあと掛け声をかけてはくれない。
むしろ、いつだって本体は見えるところにあるのだ。
いないいないと目を背けているのは自分自身。
大した認識力だと思う。