不幸のメール

最近チェーンメールを見ないなというお話。


携帯電話が広がり始めた頃は確かにあった。
まわし始めた本人が言うのだから間違いない。
ただ、実ははがきのは見たことすらない。
wikiの表記でバトンをばっさり叩き切ってるのには笑った。


さて、小学生の頃にはある程度リアリティがあった気がするが、今はそうでもないのだろうか。
WEB自体がそもそも悪意の含有比率が高いゆえに必要性がないのだろうか。
ああいう優しい悪意の洗礼もないまま現実や仮想現実に出て行くのは少し厳しい気がする。扇動する訳ではないが、安定した青年の生産のためにはもう少しこういったものが流行ってもよい気がする。


ところであの類の定型には、『止めると不幸になる』と書かれていたものだが、昨今の凋落ぶりを見ていると誰かが止めたのだろう。信じているものの方が少ないだろうからそれは仕方が無い。時代の徒花というやつだ。ただ、実はあれには書かれていない部分が存在する。というか、私の次に回した人間がいろいろと改変したのであろう。
本当は止めると不幸になるわけではない。止まったときに不幸になるのである。


ねずみ講みたいなものだと思っていただきたい。
あれには私のちょっとした不幸を分散するまじないがかけてある。それこそイタイのイタイの飛んでいけ程度の。次に受け取った人間もその程度の不幸のおすそ分けが可能なようにまじないを組んだ。だから、あれが回り続けている限りは誰も不幸のおすそ分けを受けることが無い。それに例え一部を止めたところでその分は分岐に戻り回収される。全て止まらない限り、誰も貧乏くじを引く必要はない。いや、なかったはずなのだ。


まあ、信じるも信じないのも勝手だ。
ただ、この経済不況の引き金を引いた現代の錬金術というやつに、どうにも私のまじないとの相似形を見出してしまうのはただの思い上がりなのだろうか。
おそらくまた誰かが始めるだろう。
その時は悪いことは言わないから、大人しく回しておいたほうが良い。
君にも、世界のためにも。