睡眠作法

深い闇から、引き摺り出される感覚。
覚醒までのわずかな時間で、様々なことを一度に思い出す。
自分に目があること、体があること、生きていること。
隣では愛娘が引き攣りを起こすほどの大声で泣いていた。


こんな状態になるまで起きないとは、久しぶりにかなり深いところまで寝ていたらしい。
おしめの状態を確認し、乳をやるために抱きかかえる。
全ての動作がひどく鈍い。
おまけに操作の精度が甘いらしく、乳首をくわえるまでに娘はさらに大声を3度あげた。
一度休止状態に入った機能は、簡単には稼動状態に入らない。それは機械でも人間でも同じこと。
そんな当たり前のことを最近はよく自覚するようになった。
一心に乳を飲む娘を見ていると、愛しさと同時に気だるさを認識するようになったのはいつからだったろうか。


もともと私は眠りの深いほうではなかった。
布団に入れば3秒で眠りに落ちるのび太くん体質のだんなとは違い、一晩中眠れず朝方ようやくうとうとして終わりということも珍しくない。
娘は旦那に似て、寝付いてしまえばおしめが絞れるほど排泄しても起きはしない。ただ、授乳は我慢できないらしく、彼女が不平を漏らせば私は起きざるを得ない。もちろん一切泣かないのでは心配でしょうがないし、これが当たり前のことだと理解はしているが、気付きもせず横で寝ている旦那と、飲んだら満足して寝てしまう娘を眺める度に心に何かが降り積もっていっているような気がする。


そんな疲れもあって、深い眠りに落ちていたのだけれど、再起動にこうも時間がかかるようでは困ったものだ。
かといって浅い眠りでは疲労がとれないが、結論としては旦那に乳腺を埋め込むか、どうにかこうにか騙し騙しやるしかないのだ。こんな状態でも育児を放棄しようとはあまり感じないのだから、母というものは偉大なのだなと他人事のように思う。母にはまた今度感謝しておくことにしよう。


寝ぼけた頭でうつらうつらと思考しているうちに授乳は終わった。
娘は飲んでいるうちに眠ってしまったらしい。少しはみ出た乳をふき取って、布団へ寝かした。
私もこんな風に眠れたら幸せなのだが、そううまくいくはずもなかった。
多くの人はここで羊でも数えるのかもしれないが、私には決まって想像することが一つある。
それは舞台の幕を降ろすこと。
私は暗い客席から、眩しく光る舞台に幕を降ろすための紐を握っていて、それを眠りにつくまで引っ張るのだ。
舞台には何も無いし、誰もいない。ただ照明が明るく点いているだけだ。
私の握っている紐は絶対に緞帳幕につながっているのだけれど、幾ら引いてもなかなか幕は降りてはこない。
足元には何十メートルあるのか分からないほどの紐が積みあがるのだけれど、それでも幕は動かない。
そんな徒労とも思える努力をしているうちに、すっと幕が動き出す瞬間がある。そうするといつも次の瞬間には眠りに落ちているのだった。


いつからこんなイメージを持つようになったのかは覚えていない。
ただ、小学校に上がる頃にはいつも眠りに就く前にはこの劇場を想像していた。
旦那に一度この話をしたことがあるのだが、その時はロマンチストだねとからかわれておしまいだった。
本当は何故劇場なのかとか、何故私は客席から幕を降ろさなければいけないのかとかの答えを聞いてみたかったのだが、それ以来この話はせずにきている。まぁ、自分自身でも理解していないことに答えを求めるのは理不尽だと思うけれど。


ただ、最近は少し違う。幕が動き出してから眠るまでの感覚が伸びていた。
以前は幕が動き出したら次の瞬間には眠りに落ちていたのに、今では半ばまでこないと眠りに落ちないことがある。
体感としては2秒くらいの差でしかないのだが、自分の持っているイメージが崩れるのは少し気持ち悪かった。
もし幕が落ちきっても眠れなかったら私はもう一生眠れないのではないだろうか。そんな恐怖が少しある。
夢に落ちる前の夢想の産物でしかないのはわかっている。そんなことがありえないことも。
しかし、ありえないからこそ恐怖するのではないのか?


そして、二週間後。育児の疲れはかなり限界に来ていた。
少しのことでイライラする自分を自覚していたが、どうにも止めることができない。旦那には今は別の部屋で寝てもらっている。


そして、そんな時ついに幕は降りきった。
私は客席で呆然と幕の降りた舞台を見ていた。手は紐を掴んだままで、もう引っ張るのは止めていた。
私は次になにをすれば良いかわからず途方に暮れていた。
ためしに紐をさらに引っ張ってみるが、これ以上動く様子はない。
しびれを切らした私は舞台に近づくことにした。
一段高い舞台はまだ明るいままだった。降りきった幕の隙間から光が漏れている。
そのとき私は、その光が揺らぐのに気付いた。舞台上にいるなにかの影が動いていた。
しかし、幕の隙間は小さすぎて、覗いてみても舞台になにが居るのかはわからなかった。
意を決した私が舞台にあがり、舞台の向こう側を覗こうと緞帳をめくった瞬間、


深い闇から、引き摺り出された。
覚醒までのわずかな時間で、様々なことを全て忘れる。
隣では愛娘が泣いていた。
手にはべっとりと冷や汗。早鐘のような心臓の鼓動。
何を見たかは覚えていないが、何かを見たことをはっきりと理解していた。
泣き止まない娘をじっと見つめる。
愛しさと張った胸だけがあった。