結婚

「結婚は人生の墓場だってのは誰の言葉だったかね?」

「また、けんか?」


私の質問に兄はため息で応える。
兄は昨年結婚したばかりだ。二ヶ月前には子どもも生まれた。
なのにしばしば実家に帰ってくる。奥さんも子どもを連れて実家に帰っているといっていたからお互い様なのだろうけれど。


「どうせ浮気でもしたんでしょ?」


気弱な兄にそんな甲斐性があるはずもない。
ただ、意気消沈している姿があまりに哀れなので話を振ってあげただけだった。


「そんな大事件なら今頃おれはここで息をしていないよ」

「それなら謝ってすむ話じゃないの。大したことないじゃない」

「大したことないからすれ違いは深刻なんだよ」


兄はそう言って再びため息をついた。
いらいらする。大事な休日を腐った死体みたいな兄と過ごすなんてなんて無益なのだろうか。しかし、一般的なお金の無い高校生であるところの私には家で本を読むくらいしか選択肢はないのだ。そんなに友達もいないし。


「嫌なら別れればいいじゃない」

「嫌いなわけじゃない」


そう、いつも兄はこう言って私を煙に巻く。
嫌いでもないのに何故愚痴が出る。一般的な色恋沙汰に浮かれる高校生であるところの私にとっては、それは嘘だ。好きな人となら産業廃棄物処理だって楽しい、たぶん。
少なくとも毎週のように実家に帰ってきてはため息をついたりはしない。
現に兄だって付き合っているときは毎週のように鼻歌交じりでお出かけしていたのだ。
大した鼻歌ではなかったけれど、それがため息に変わってしまうのは悲しい。
いずれ自分もそうなるのかと思うともっと悲しい。
一般的な薔薇色の未来を信じる高校生であるところの私は、結婚をまだ幻想のヴェールで包んでいたいのだ。
梱包を勝手に毎週毎週はがされては困る。


「結婚する前はあんなに楽しそうだったじゃない」

「そうだな。週に一度会えるのが楽しみだった。会えない時間が苦しかったよ」


兄は遠い目で語った。ほんの一年前とは思えないほど過去を見ている気がするが。


「この人しか居ないと思ったから結婚を申し込んだんだけどな……」

「後悔してるの?」

「まさか。今でも間違ってなかったと思うよ。そりゃ自由な時間は減ったし、好きに飲みにもいけない。子どもは夜鳴きして睡眠時間は削られて、仕事で凡ミス頻発したりするけど。あと、嫁の作るご飯がちょっとあれな感じだけども子どもだって生まれたし、幸せだぞ」

「その天秤は釣り合ってるようには思えないけど」

「そう感じたならそれは間違いだ。現におれは幸せだ。だが、うまく言えない何かが違うって感じなんだよ。よくわからないけどな」


兄はまだ遠い眼だった。本当に自分自身が良くわかっていない様子だ。
家庭でもこんな様子なのだろうか。もしそうなら正直言って引くわ。
自分の旦那ならちょっと考え直すかもしれない。おそらく奥さんもそうなのだろう。
兄が感じている微妙な違和感に奥さんが感づいているのだろう。
だから、いらいらしてケンカになり兄が違和感をさらに深めるという悪循環。
というか全部このバカ兄のせいではないか。


「兄、奥さんのこと愛してる?」

「お前、何を」

「兄?」

「……愛してるよ」

「昔と変わらず?」

「昔と変わらずだ。結婚した時のまま変わりはない」

「だから、ケンカするのよ」

「は? 変わらないって言ってるだろうが」

「変わらないままだからケンカするのよ。そういう意味では確かに結婚は人生の墓場か、言いえて妙ね」

「どういうこった?」

「兄は結婚をゴールにしちゃったのよ」

「ああ、よく言われるやつだな。結婚したら魅力が無くなったっていう。だが、それは違うぞ。今だって週一回のデートは欠かさないし、プレゼントだってきちんと贈ってる」

「そうね、付き合ってたころと同じにね」

「何がまずいんだ?」

「兄の恋愛感情が結婚の段階で終わってるのが問題なの。兄にとっては恋愛の終着点が結婚かもしれないけど、奥さんにとっては通過点かもしれない。少なくとも私にとっては終着点じゃない」


そう、冗談じゃない。勝手にゴールされてたまるか。


「変わらぬ愛を? 冗談でしょう? そんなのマンネリの極地じゃない。単なる手抜きでしかない」

「でも、結婚を申し込む以上の愛情表現なんてあるのか?」

「そんなの知らないよ。自分で考えなさいよ。ただ、今のままじゃ駄目。絶対駄目。私なら飽きる」


私の言葉に兄が酷く途方に暮れた顔をした。


「そんな次々新しいこと考えつくわけないだろ……」

「誰が新しいことしろって言ったのよ。お金のない高校生を舐めるなよ。ほぼ毎日公園デートだっての」

「でも、お前飽きるって……」

「クラシックが何万回同じ曲やってると思ってんのよ。好きなものは何度だって好きなの。要は気持ちの問題。どんな好きな曲でも気の無い演奏されたら聴けたものじゃないでしょうが」

「……確かにな」


私はいらいらしていた。理由は良くわかっていた。
兄の奥さんと私が良く似ているからだ。男はいつもそうだ。勝手に終わりを決めて、終わった後は惰性で過ごす。
お前が満足したって私はまだ全然なんだからなっ!
結婚なんてただのチェックポイントだろう?


決めた。私は一生恋愛して過ごす。
もし旦那が勝手に結婚をゴールに指定するような奴だったら、そのときは私がそいつを墓場に埋めてやる。