否定の効用

体罰についてずっと考えている。
うちは基本的に手を上げたりしないことを子育ての方針としていて、それを少しは誇らしくも思っているのだけれど、ただ手を上げなければそれで良いのかということがちょっと気になっている。


単純に言うと、殴ったから自殺したわけではないだろうということ。
もちろん直接的な原因であると思う。
でも、通りすがりの人に殴られたからって辛くて死ぬ人はほぼいないわけで、結局はそれが未来永劫続く環境だという絶望とか、人格を全否定されるという文脈の問題なのだ。


体罰で心は死ぬけれど、物理的打撃で心が死ぬわけではない。体力値と一緒に生命値が削られるから追いつめられる。
だったら精神攻撃だけで人は死ぬはずで、もちろんそれで沢山死んでいる。
じゃあ、『手を上げない』という子育ての方針に何の意味があるんだ?


私は最近のコドモだったのであんまり物理的な喧嘩はやったことがない。だから、コブシを使い慣れていない。今からそいつを殴りにいけない(古いなあ)
逆に口喧嘩は得意な分野だと思う。特に人を怒らせること、蔑むことに関してはかなりの腕前だと自覚している(泣いてなんかないやい)


てことは、使い慣れた武器を積極的に使うって子育ての方針は、なんか変じゃないか?
体罰ではないって大義名分に隠れて、精神攻撃を肯定的にとらえてないか?


手を上げた方が良いとは今でも思わない。
ただ、手を縛っているからといって手加減になっているわけじゃないことは自覚しないといけない。
子どもたちはいつだって無防備だ。正論は人を簡単に殺しうる。
むしろ正しい躾だからこそ逃げ場がなくって最悪の結果になるのかもしれないな。