子育ての手段と目的と

手段が目的化するという話があるが、子育てってまさにそのものだと思う。
育てるのは私だが、育つのは子ども。
特に何かを成し遂げさせるために育てているわけではない。


ただまあ、できたらずっと一緒に暮らしたいという願望は正直ある。離れてしまうのは寂しい。
私の所有物ではないと頭で理解していても、その願望を消すことができない。
同時に迷惑をかけたくないとも心底思う。もっと正確に言えば、嫌われたくないだけなのだろう。
受け入れてもらえるなら迷惑をかけても良いとすら、私は本心で思っていそうだ。


どうしたって近付けば粗は見えるし、人生一寸先は闇だ。どんな良好な関係も突然の嵐の前にはあっさりと消し飛ぶ。
愛情はお金で買えないというが、その愛情でお金を貰えるものだろうか。
自分には愛情を質草にしないという自信が無い。


私と子ども達の関係を一般化しても意味がない。
相互扶助や大義名分のために親子をやってるわけじゃない。
親子だって、親子だからこそ、毎日好感度の針は振れ続けている。


芥川は『両親は子供の成人と共に必ず息を引取る』世界を夢想した。
たしかに、それくらいならばましな親で在り続けられる気もする。
それ以降については全く自信がない。


ましな親で居られなかったとき、たぶん私は死んでしまいたいと思うだろう。
でも、死んだら子どもが悲しむ時、私はどうすればよいのだろうか。
誰か答えを持っているのだろうか。