しあわせのデザイン

しあわせになる方法について考える。
現時点の私は幸せだし、10年後もデフォルト食らうとか南海大地震とか無い限りたぶんある程度は幸せで居られるだろう。
でも、子どもたちはどうなんだろうな。子どもたちのしあわせのかたちが私にはよく見えない。


マズロー的に評価すると3と4を行ったり来たりしてる段階かな。
私が想像できて、他人に説明できるしあわせのかたちは3の段階までだと思う。それでも怪しいくらい。有り体に言えば、家族と友人と仕事。
それ以上については、もう人によるとしか説明できない。


1と2について欠乏を感じることなく育った私のベースラインは3からだ。
それは本当に幸せなことだと思う。
そりゃ1と2の欠乏を知っている方が強い人間なのかもしれない。
だからといって強いて味わって欲しいとは思わない。いいよ、ゆるめの人間で。
まだまだ上はあるんだし。


でも、今の私の状態はたまたまなのだ。
自分が努力したり、狙って得たものではない。将来にわたってこの状況か、さらに上を目指せるのかはよくわからない。
経済とか政治とかの積み残しを考えると不安の方が多いような気もする。
そんな親を見て、子どもは自分たちのしあわせの形を思い描けるものなのだろうか。


たまたま幸せな私は、たまたま不幸な人のことを考える。
その手の届く彼我の距離。
境界は不明瞭で、明暗も定かならず。


そのまましっかり抱いてるんだよ、と言い聞かせ続けるしかないのかも。
今が幸せであるならば、だが。