親と認識する

帰ってきた時の下の子の喜び具合がすごい。
羽ばたかんばかりに手を振り、歓喜の歌声を上げる(あ゛ーあ゛−言ってるだけだが)
上の子のときよりも大袈裟な気がする。ご飯を食べさせる役を担っているからだろうか。
なんにせよ嬉しい。今回もとーちゃんかーちゃん先呼ばせ戦争は熾烈である。


大体の子どもは親が好きなのだけれど、なんでだろうか。
怒るし、口うるさいし、言うことを聞かないのに。
まあ、そのせいか段々嫌われていくわけだけれども。
反抗期も可愛さ余って憎さ百倍になってるのだと思えば耐えられるのではないか、と思ったが無理だった。嫌われるのに耐える必要がない。
距離を置きたきゃ置いた方がよろしい。但し、うちの反抗期は自活自律がセットだがな(予定)


好感度は回数頻度効果なのだとは思う。それ以外の理由はファンタジーに過ぎる。
刷り込みだって、普通最初に見るのは親じゃなくって医者か看護師だしなあ。
与えてくれるのならば、子どもは親役が誰だって良いのだ。でなければ生きてはいけない。


となると、結局は親の気の持ちようだということか。
私じゃなければいけないんだ、とずっと勘違いしたまま墓に入りたいところである。
喜んで子どものてのひらで踊らされていきたい。