孤独は死、またはそれに近しい

最近では一人になるとすぐに声をあげるようになった。
不安とか、恐怖とか、まあ、そんな感じのことを覚えたのだろう。
ちょっと前まではどれだけ一人でも平気だったのに、いつの間にか孤独という病気にかかっている。
きっと死ぬまで直りはしない。
自我が出来はじめると同時に孤独を恐れ出すというのは、自我が他者との係わり合いの中でしか存在できないということの証明だろう。
もしくは、完全だった自己が他者を認識するがゆえに欠けていくのか。


と、まあ、どれだけ言葉を飾ったところで、我が子の泣き声が聞こえればすぐに行かざるを得ないし、滝のようによだれをたらす我が子に自我もくそもあったもんじゃない。
喋れない間はまだまだ獣だ。鳴き声ばかりが喧しい。
こちらはこちらで喋る相手が居ないから、やっぱり独り言が増えた気がする。
もちろん我が子に話しかけることの方が多いけれど。


ただ、何故私は伝わるはずの無い言葉を話しかけ続けるのか、とは思う。
確かにいずれ成長し、言葉を理解するのだろう。話しかけた方が発語も早いのだろう。
でも、本当にそのためだけに話しかけているのか。
返ってこないことを前提のコミュニケーションなんて、大げさな独り言とどこに違いがあるだろうか。
しかし、それを理解していても私には止める事ができない。
とにかく何もしないのは嫌なのだ。


そういえばこれに似た状況を私は知っている。
救急医療で瀕死の患者に大声で語りかけたりする、あれだ。


ああ、私はこの小さな声で、いったい何を蘇らせたのだろう。