眠りと夕方

子どもは眠りに入りかけるとき、愚図る。
夕方、空が茜色に染まる頃、とても愚図る。


眠りと夕方が象徴するもの。
それは死だ。


一日の概念すら怪しい月齢でも。夕方にぐずりはじめる。
隣の家の子もぐずりはじめるのだから、おそらく万国共通なのだろう。
それほどに、一日の終わりは不安で不安で仕方が無い。
眠りがもたらす意識の断絶が、怖くて怖くて仕方が無い。


つい先日まで意識すらなかったのだからそれも当然かもしれない。
意識が容れ物に定着するまで多少時間がかかるのだろう。
言ってみれば、子どもは毎日死んでいるのかもしれない。
多分、生よりも死の方が近しい存在なのだろう。
私たちは生きていくうちに死から遠ざかってきた。しかし、子どもたちはつい先日まで死んでいたのだ。その手触り、感触は私たちよりも遥かに鮮明で濃いものなのだろう。私たちは生きていくうちに自我が続いているということに慣れてしまったが、子どもにとっては明日の自分が自分であるという確証がない。
だから、子どもは一日の終わりにこの上ない不安を感じるのだろう。



もしそうならば納得できることがある。
子どもは一日一日本当に成長する。
昨日はしなかった仕草や表情を平気で行う。
毎日生まれ変わっているのだとしたら、それも当然なのかもしれない。


いつか問うてみよう。
君は昨日の君なのか、と。