泣く理由、止む理由

近頃の追尾性能の上昇は目覚しいものがある。
ちょっとトイレに行くだけなのに、当たり前のようにドアの前に陣取っている。
なのに、お待たせしました、と便座に座らせてもおしっこはしない。
明らかに嫌がらせ目的である(確認するな)。


うちのリビングにあるドアは間にすりガラスが入っているタイプだが、2cmくらいの透明部分から向こう側が見えるようになっている。
子供を置き去りにすると必ずその隙間からこちらを窺っているので大変怖い。
思わず「お前は家政婦か!」と突っ込んでしまう。市原悦子もびっくりである。


私はすぐに戻ってくるということをいつまで経っても学習しない。
お乳が二つあることに並ぶ、七大不学習の謎である(残りは追々発現予定)


ちょっとでも放置の時間が長くなると、本気で泣き出す。
そうなったら待ったなし。便意も一時お預けで、抱き上げないといけない(手は洗う)
あんなに激しく泣いていたのに、抱くと泣き止むのが不思議だ。
安心するのはわかるが、なんだか「安心」という言葉では言い尽くせないものがあるような気がする。
抱いてる私自身も不思議と落ち着くし。これが一体感というものだろうか。


一つになりたいけど、一人にはなりたくない。
繋がっていたいけど、一人でいたい。
わがままだな、お互い。