慈しめる理由

何故か私たちは子どもの頃の記憶を失っている。
世に言うように印象が強ければ記憶に残るというのならば、生まれて初めて見た世界ほど印象的なものなどあるまい。
しかし、その母の顔は私たちの中にはとうに無い。
長い間吸い続けた乳房の感触もすでに忘れ去ってしまった。
全てが新しかったあの一日一日が、いかなる像も結ばず、記憶の果てへと流れていってしまったのだ。


ただ、だからこそ子どもを愛せるのかも知れない。
無私の愛とは究極の無理解だ。
相手の打算や思惑が、透けて見えては無私でいることは難しい。
相手のことをなにもわからないからこそ、生まれる愛がある。
もし、私たちが子どものころの記憶をはっきりと持ったままだったなら、これほどまでに彼らに愛を注げただろうか。
わがままだな、と苦笑しながらおしめを換えられただろうか。


私は人間ができていない。
忘れていてよかったと、心から思う。
もし、覚えていたら、あの無上の笑顔に、打算を透かしてみてしまうから。